2012年10月13日

思考力を身につけるための習慣 (4/4)

どうやったらこの思考力を身につけられるのでしょうか。
非常に難しい問題であることは想像できます。
私の考えでは、思考力とは習慣から身につくものだと言えます。

よって、大人になってから身に付けるのであれば、保証できませんが、私の考えでは以下の行動をとることになりそうです。


1. 自分が理解のために努力しない人間だと認識しましょう

諦めない、投げ出さないと等しいのですが、自分が上記のような人間だと謙虚になり、姿勢を改める以外にありません。「いや、私は謙虚だ」と思った時点で謙虚ではないと思いましょう。それほどに前提が成立していないのです。


2. 仕事でも趣味でも、ものすごく好きなものを探す

好きなもののために何をおいても行動するという意思と、実際に行動することが求められます。そのために散財することにもなり得ます。子供の頃は散財する財力もないために、逆に好きなものを以下に長く続けるか、大量に手に入れるか考えることを行えます。なので長い間、ものがない/困ったことがある子供というのは、大人になって思考力があるケースが高いです。
大人になると、欲しいものはある程度買えます。でも、ある程度行くと抑制心が働きますので、散財するほどではないケースが多いでしょう。破産しない程度に散財するぐらい、好きにならないとだめかもしれません。。。

ただ、生活できないほど散財しないようにするのは難しいでしょう。生活についてもしっかり赤字にならないよう考えてください。

そして、何でもよいので、好きなものの知識を深めてください。


3. 現状に困っていることを探す

好きなものに詳しくなってください。具体的には好きなんだけど、こういうものが足りない/困るというものが見つかるぐらいにです。どんな些細なことでも困っていることを探し、何とか解決しようとしてください。それは既製品をまずは探すでもよいでしょう。見つかれば良しとしてください。どんどん改善してみてください。
改善するという行為が考える行為になっていきます。


これを2年ぐらい続けてみて、やっともしかしたら思考力の基礎が身につくかもしれません。
これについては保証できません。。。。。
ただ、何でもかんでもやってみるということに結局結論付けされます。。。

2012年10月12日

思考力がないことのデメリットを知る (3/4)

書籍には考える力がないことによるデメリットが示されていないことが多いように思います。
このデメリットについても知る必要があると思います。

仕事にしろ勉強にしろ、どんなことでも次のステージに進むには何か必ず新しいものを理解する必要があります。もしくは新しいものを生み出す必要があります。そのためには新しいものについて考える能力が必要です。勉強の場合、通常高校までは先生が先に新しいものを教えてくれます。そのため、新しいものを自分から理解しようという能力は育ちません。そして、それに慣れてしまうと、知識は与えられるものだから、待っていれば答えがいつか得られることを無意識に考えてしまいます。これが自分で考えることを阻害し、分からなければ降参さえすれば、誰かが答えは教えてくれると待ちの状態になります。

社会人になれば、勉強すらも自分から新しい領域に踏み込まなければなりません。いえ、踏み込むことは簡単です。本を買うなり、人に教えを請えば良いのですから。でも、そこでは答えを簡単に教えてもらうことはできません。正確には答えがない可能性が高いです。社会において答えとはないに等しく、いわゆる処方箋に近いものです。よって、誰かのやり方が正しいかといえば、別の状況では全く正しくない、もしくはもっと良い方法があることが多いのです。

また仕事にしてみれば、何か新しい革新を生み出すこと自体、既存にはありませんから答えなど教えてもらうことはできません。それこそ自分で答えを作る人間にならなければなりません。それが考える力になります。それを既存がこうだからとか、調べたけど答えがないと言っていては、当然何も改善も革新も新しいこともありません。また、現状何が問題か、不満はないかなども考えませんから、結局は非効率な方法を続けます。

これらはもし会社であれば、人件費として莫大なコストとなります。

会社員は法的に十分保護されています。就業時にいわゆる能力主義による契約をしていない限りにおいては、容易には解雇されません。
それが逆に、安心感を生み、社員自らの向上心を阻害する要因になり得るケースもあり、一概に良し悪しを言い表せません。良いのは、考える力がある人間からすれば、チャレンジ精神を持って新しい分野に進出し失敗したとしても、そこは守られるためです。また会社もチャレンジ精神のもと、正しく活動した社員は重宝こそすれ、捨てることはほとんどありません。
逆にチャレンジせず、現状を変えることもしない社員は、単に守られているだけで、会社には害しかありません。会社は基本的に、社会に貢献し、利益をあげ、会社を大きくすることが求められます。その全てにおいて重石になります。

この重石はチャレンジしようとしている人間にとっても害になります。チャレンジしようにもお金がなくなれば、会社はチャレンジを容易に認められなくなります。また、チャレンジできる能力を有していても、考える力がない社員が活動できるよう、彼らが考えなくてもできる方法を模索することにチャレンジする必要性が出てきてしまいます。つまり、チャレンジできる人間は社外に能力を発揮して確認するのではなく、社内の考える力がない社員に向けた閉じたチャレンジしかできません。
結果、これらは別に評価されることもなく(考える力のない社員が幸福になり、そして感謝もされませんし)、文句も言わずにこれまで同様残るか、会社を去る道を選ぶことになります。

考える力がないということは、会社が革新する上での妨げになります。

考える力がない人のデメリットはその人自身にはありません。その人の周りの方にしかデメリットは発生しません。昔であれば聴衆を簡単に扇動できたでしょうが、今の方は思考能力にまで発展しませんが、自分にデメリットでは?ということだけは、自分を守るために感覚的に考えます。
ですが、あくまで自分のデメリットまで。他人に与えるデメリットを認識するには至りません。
また、何となく考える力がないなと思いながらも考える力がないことを実感できない、自分で気付かないのも考える力がない場合の特徴です。
そして、得てしてまわりからは評価されないのですが、その評価の理由も分からず、教えてもらえることもあまりありません(どうせ聞いてもなぜなのかを考えないため。。。)。

はっきり言えば、この記事は耳障りな内容だと感じる方も多いでしょう。ですが、デメリットを認識しなければ身につけるモチベーションにならないかもしれない、逆に言えば、この記事でモチベーションにつながる方もいるかもしれませんので書かさせて頂きました。

2012年10月10日

思考力がある人はなぜあるのか?思考力以前のハードル (2/4)

思考力がある人は多くの場合、ある特定の分野に対して非常に特化した思考力を持っています。それは概ねどの分野でも構わないのですが、あまりに趣味に走りすぎた分野の場合は単純に詳しいだけになりがちです。


どういうことかと言いますと、つまりは思考力は過去の自分の記憶や経験から推察されるものがほとんどだということです。そしてその分野に特化して、詳細に記憶や経験がある分野において、想像をふくらませることを何度も経験すると、まずは、その特定の分野に関してのみ思考することができるようになります。この想像をふくらませるというのは、訓練のためにふくらませようとしているのではありません。

簡単に言えば、その対象のことが好きだからよく考えるだけなのです。私だったらゲームやコンピュータのことが好きだから、そのことをよく考えるだけです。


必ずしもではありませんが、思考力がある方は、具体的にはその対象、ものや分野に関して以下の感情を持つことが前提です。

1. すごく好きだと思う
2. よく見聞きしている。
3. 興味がある
4. 趣味
5. 楽しい、面白い
6. やっている。やってみたい。
7. (ごく稀な例外ですが) やりたくないぐらい、すごい嫌い


その現在の状態に対して考えるというものをし尽くし、現状に満足しない状態になった時に状態の変化を考え出します。どうにかして新しいものを、どうにかして改造を。。。などです。この状態の変化を引き起こそうとする行為が思考力を鍛える方法になり、これを何度も行うと思考しようという糧になり、そして、実際に状態の変化の行動を起こすことで思考力が鍛えられ身につくようになります。この状態を変化させる行動はよく失敗します。失敗するからこそ、どうしたらいいのか、前提はなんだったのかを何度も考えます。それが建設的、論理的な思考の順序を考える訓練になるのです。

これが経験上、次にどうしたら良いのかを考える基礎となり、今までこういう手順で状態を変化させてきたというものをベースにどんなことも建設的にこうして行く必要があるのでは?と考えるようになります。

思考力がある方は、単純にある特定の分野の上述の経験を、何となくだったり体系だっていないけれど、考えることができる、考えることが苦ではないというだけです。


今更どうしようもないと言われてしまえば、どうしようもないでしょう。
簡単に言えば、以下に当てはまる方は、思考力がない場合がほとんどです。

1. 好きなもの、熱中するものがない
2. 好きなもの、熱中するものはあるけど、単純に見ているだけで満足する
3. 見ているだけで満足しないけど、仕方ないから諦めて、自分で好きなものの状態を変えようとしない
4. 状態を変えようとしたけど、知識、(一般)教養がない。
5. 知識も(一般)教養もないけど、できる/できないの結論を理由を持って出す前に、途中で投げ出した

この内、知識や一般教養は好きだけでは身につきません。好きな分野に関しては知識は身につきます。単純に詳しくなったり暗記するだけです。でもどうしてもそれだけでは、複数の知識を身につける何かが足りません。言葉だったり、数字だったり、時事だったり、物理だったりするかもしれません。これら複数の知識をつなげるために一般教養は必要です。


また、状態を変更するというのは以下の欲求を解消することを指します。

1. 楽しいけど現状に飽きてきた。もっと楽しくしたい。面白くしたい
2. 人がやっているのを見ているのが好きだったが、自分でもやりたい。だから何とかやりたい。どうにかしてやりたい。
3. こういうことができたらいいなと思う。ちょっと何か自分に合わない。一手間あるのが面倒だと感じた
4. どうしても今のままだと面倒くさい。楽になりたい。
5. 今のままでは、これができなくて困っている。自分で何とかしたい。自分でどうにかしたい。

よって、例えば麻雀は好きだという方は、最初の好きなものがあるという前提を満たします。ですが、現状の麻雀のルールに満足して面白いと思うだけでは思考力は身に付かないのです。ルールをねじ曲げてみたい、如何に効率よく状況を簡単に把握できるようになるにはどうしたら良いか、自分でルールを展開したいと思うようになってしまうぐらい熱中する人が、最初の思考力の基礎への扉が開きます。

また、困っていても、それを自分で何とかするのではなく、既製品から探すだけではやはり考えないため思考力は身につきません。自分の要求を叶え終わっているものを探すだけでは、あれば満たされ、なければ諦めてしまうため、考えません。あくまで、探しても、その後無ければ諦めないで自分で何とかしようと思う場合だけです。逆に言えば、諦めてしまうというのは「好き」ではあるのでしょうが、「ものすごく好き」ではないと思います。


上記のほぼ趣味に近いことを経験したことがない場合、思考力が身につきません。

そして、その状態を変えるということを何度も何度も、何年もかけて経験すると、思考力の基礎ができます。思考力とは趣味の改善に近いものです。


好きでも嫌いでもない感情を持ったまま、思考力を身につけたくて本に頼ります。でも、どうやればいい、ああやればいい、と言われても、ふーんで終わる。結局それの必要性は何となく理解できるけど、それを習慣にはできない。最初はがんばってやってみているけど、しばらくすると忘れてしまう。だって、興味がないから。本当に必要な時はそんなにないし、面白くもないからとなって、結局身に付かないのではないかと私は考えます。

2012年10月08日

思考力を身につけることはできるのか? (1/4)

思考力、論理力(ロジカルシンキング)、整理術等、考える力を身につけるための本は多いです。
ですが、これらの本を読んで理解し実践できる人間は、概ね最低限の能力を有している場合が多く、最低限の能力を有していない方は、これらの本を読んでもさっぱり実践できないことが多いと思います。

本に記載されていることが間違っているわけではありませんが、できない場合は、「なぜできないのか」、「できるようにするには」の実践がないことも大きな障壁でしょう。通常はこのような本には、「こうすればいい」が書かれていますが、それを実践できるなら実践できています。つまり、最低限の能力として形容した能力(よく地頭とも言われますが)がなければ実践できず、ある人は本を読んでも実は知らず知らずに実践できていることも多く、理論を得られますが、実際はほんの少しの向上にしかならないことが多いです。


問題なのは、その最低限の能力を有していない場合です。


彼らはそもそも、考えるということをしていないのです。最低限の能力とは、考えられる力ではなく、考える力でもなく、考えるという行為ができるかどうかです。その結果答えが出る/出ない以前に、考えると言う行為ができない人は、たった少しの意味不明なものがあると、全てが意味不明に連鎖的に陥ります。そして、分かっている部分から少しでも読み取ろうという意識さえなくなり、完全に放棄します。その結果、何が分からないか分からないという状況になります。

彼らは少しでも理解できないものがあっただけで、全てを理解できないものとし、少しでも理解しようという気持ちさえなくなるのです。そんな彼らは「全て自分が分かる言葉に置き換えてほしい」という、自分の能力がどの程度かも表現せず、ただただ自分のレベルに合わせるように要求をはじめ、最悪の場合、最終的にはその要求を満たさない相手が悪い、理解させようとしていないというように考えはじめます。
そして理解しようという気持ちは何もなくなり、放り出してしまいます。

最低限の能力と言いましたが、能力以前の単純に心構えの問題ともいえます。
考える力がある人間は理解できない部分を無視して理解できたところだけを読むか、理解できたところや前後の文脈から何とか理解できない部分を推し量ったり、補間しようとします。その結果、100点はとれなくても十分な合格点にその場で至るケースが多いです。合格点には至らなくてもある程度の情報を得たり、後から十分情報を補間できます。つまり、理解することを諦めていないのです。

単純に理解を諦めている節が多いのは事実に考えます。長時間考えているように見えますが、実際は眺めて単に答えが実は隠れていないか、観察や調査、整理、推測ではなく、そのものずばり、答えそのものを表面的に探しています。結果なければ、それ以上の観察や調査、推測を行うことなく、断片的に理解したこともまとめず、「全て理解できない」よって「分からない」に至ります。この全て理解できない状態を、分からないと形容するがゆえに、思考力がない、論理力がない、整理できない、考えられないに結び付けられて能力が判断されます。

先にあげた書籍は、この理解を諦めない人のために書かれた本です。
その理解できる部分から理解できない部分を理解できた状態にするための手法が紹介されています。そのために、どのように観察するのか、どのように調査するのか、何をどのような方法で分類・整理するのか、どうやって理解できない部分を推測したら良いか、その方法が記述されているのです。つまり今まで合格点にならなかった「理解できなかった個所」を、あらゆる方法論を用いて合格点になる推測等の結果「理解できた個所」にするための所作と心構えに近いことが書かれています。その前提はやはり諦めない人間です。そして、その所作と心構えをある程度持った人(これが最低限の能力があると形容されたもの)が読むために、さらに能力向上につながります。なぜなら、自分に足りないものを本から推測等ができるからです。その所作と心構えを持たない人は、どんなに読んでも何も得られません。おそらくその本を読んでも、理解も共感も何もないため、結局自分には理解できないとなります。最後には自分に足りないものを推測することもなく、本を閉じるでしょう。

結果、思考力は身に付かない人には身に付かないまま、鍛えられないままとなってしまいます。ですが、思考力というが身に付かないというのは本を読む、上記のような忍耐力みたいなものがあるかどうか、それ以前のように考えられます。

2012年10月07日

責任を取るということは、どういうことなんだろうか?

「責任はどうやって取るつもりか?」

こう聞かれても、責任のとり方なんて簡単にはわからないと思いませんか?
・会社をやめればいいのか?
・謝ればいいのか?
・給料が下がればいいのか?
・始末書を書けばいいのか?
・それとも損害賠償すればいいのか?

そして、責任を取らなくてもいいということも分からないと思いませんか?

それらはつまり、責任とは何か?責任の所在はどこなのか?明確では無いから発生しているようにも思えます。

私は上司の立場にはありませんので、最終の責任のとり方というのは会社を辞めることまでであって、それより上の損害賠償等の責任は、よっぽどのことをしないかぎりは発生しないでしょう。でも通常は、プロジェクトにおいても仕事においても、何かあったとしてもそこまで責任をとるということは発生しません。

同時に責任と反対の無責任もどういう状態なのか分からないと思いませんか?

会社では「あの人は責任を取らない」とよく思います。それは私が勝手に思っていることです。
でも、よくよく考えると、じゃぁ何をしたら責任をとったことになったのか、それを考えていなかったように思います。

社会人でも、会社員としても、役職なしの社員、主任、課長、部長、さらに上の立場、
次に役員の立場、執行役員や監査役、社長や副社長、さらに上の立場、
株式会社においては、株主もいます。

会社内の役職員における立場もあれば、プロジェクト上のプロジェクトマネージャー、プロジェクトリーダー、サブリーダー、営業、いろいろな役回りもあります。

それぞれの責任範囲とは一体何なのか?
そして、それぞれどこまでの権限があるのか?
お金はどこまで使えるのか、何を決定でき、何を決定できないのか?
何かあったらどうするのか、誰にエスカレーションしていくのか?
そして、失敗した時はどうしたらいいのか?

「そんなことは言われなくても当たり前のように分かっていろ」と言われるのかもしれません。
それは私が不勉強なのだと思います。でも、それはあくまで暗黙的です。

定義すればするほど、逆にがんじがらめになるとも言えます。それが身動きを取れなくしてしまう。なければ、ある程度状況や行間を読んで行動し、補間できる場合もあるので定義しないと言えます。

責任というものを考えて行動するのは非常に難しいです。

が、一つだけ誰でもできることは、「無責任ではいけない」「これは私が責任を持って最後まで面倒を見る」という心がけは持てると思います。最低限、「自分には責任はないから」という考えを持たないようにしたいと考えました。